生まれても死んでも悲しい

知人に子供が出来たことを知る。今の世の中、さして親しくない人の近況も、Facebookがあれば家族以上の速さと詳細さで耳に届く。

結婚して20年くらいずっと子供がいなかったから、てっきり子供をつくらない主義なのか、不妊なのだろうと思っていた。

自分達と同じ側だと思っていた夫婦に、ある日突然、赤ちゃんができたことを人伝に聞く。そういうことがよくある。

必ず人伝に聞く。本人から聞くことはない。

子供がいない私に、自分達の喜ばしいニュースを伝えることを遠慮しているのに違いない。

何故なら、それは彼らが長い間、聞きたくないニュースだったから。同じように、私も聞きたくないだろうと慮ってくれるのだ。

・・・というのは私の妄想だろうか。

 

みんな遠くにいってしまうのね。

 

この頃は赤ちゃんを可愛いと思う自分と、存在を目にすることもウンザリすると思う自分の間で、心底疲れ切っている。

生物的に子供が産めない歳になったことで、産む性としての本能と、社会的な私の判断とか、インナーチャイルドの気持ちとか、色んな人格がどうにも統合できなくなったのだろう。

それでいつも泣いてばかりいる。

 

子供がいない夫婦の話ばかり探してしまう。

村上春樹とか。

 

 

夜、テレビで痴呆症の母親のドキュメンタリーを観る。シリーズとして放送されているこの母親の姿が、自分の母親に重なり、涙が止まらない。もし私の母がこんな風に痴呆症になったら、私の心は引き裂かれてズタズタになるだろう。想像しただけで、息も絶え絶えになる。

 

長生きしたお年寄りの本を片っ端から手に取る。大抵は夫を亡くしたり独身だったりする女性の話。

いつか自分がそうなる時のために。

そうして少しでも不安を追いやろうとしている。